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前橋地方裁判所 平成10年(ワ)15号 判決

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告甲野花子に対し金三七五七万四九一一円、同甲野一郎、同甲野二郎及び同甲野三郎に対し各金一四一九万一六三七円、同甲野松夫及び同甲野ハナに対し各金三〇〇万円及びこれらに対する各平成八年一月二〇日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)の夫、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)、同甲野二郎(以下「原告二郎」という。)及び同甲野三郎(以下「原告三郎」という。)の父、原告甲野松夫(以下「原告松夫」という。)及び同甲野ハナ(以下「原告ハナ」という。)の子であった甲野太郎(以下「太郎」という。)が、被告の経営する三枚橋病院(以下「被告病院」という。)で精神科の治療を受けるべく入院したところ、翌日急死したことについて、原告らが、被告病院で職員らが太郎に対して有形力を行使したか、あるいは電気ショック療法を施行したことに原因があり、そうでないとしても鎮静剤を注射して保護室へ収容した後、十分な経過観察を怠ったため、太郎の容体の変化に適切に対応できなかったことが太郎の急死に至った原因であると主張して、被告に対し、診療契約上の債務不履行ないし不法行為の損害賠償請求権に基づき、逸失利益の賠償を求めるとともに(相続により太郎の権利を行使)、生命侵害に対する近親者慰藉料を請求し、これらに対する右太郎の死亡の日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求した事案である。

一  争いのない事実

1 原告花子は太郎の妻、原告一郎、同二郎及び同三郎はいずれも太郎の子、原告松夫は太郎の父、原告ハナは太郎の母である。

太郎は、昭和二九年一月八日、群馬県佐波郡赤堀町で出生し、酒類販売業を営んでいたが、平成八年一月一〇日(以下平成八年一月中の日については日だけでいうことがある。)、太郎は、単科の精神病院である被告病院で診療を受け、一九日、同病院に入院し、二〇日午前一一時一五分ころ、同病院で死亡した。

2 被告は、肩書地において被告病院を経営する医療法人であり、檀原医師、小保方医師、渡嘉敷医師、人見医師、小林看護婦、飯塚准看護婦、田村看護士、新井准看護士、竹村准看護士、広川看護士、柿沼看護助手はいずれも平成八年一月当時、被告病院で勤務していた者である。

二  争点及びこれに対する当事者の主張

1 責任原因

(一) 原告らの主張

太郎の死亡は、被告病院におけるその職員らの次のいずれかの行為によるものである。

(1) 有形力の行使

二〇日午前一一時四五分ころ、被告病院の職員らは、被告病院内において、太郎に対し、鎮静睡眠剤を注射するに際し、鈍体を使用して殴打し、足蹴りを加えるなどの暴行を加え、太郎を押さえつけてその顔面等に皮下出血等を伴う傷害を与えた。

右傷害により、太郎は心停止し死亡するに至った。

(2) 電気ショック療法の施行

二〇日午前一一時四五分ころ、被告病院の職員らは、被告病院内において、太郎に対し、電気ショック療法を施行した。

これにより、太郎は心停止し死亡するに至った。

(3) 経過観察義務懈怠

被告病院の職員らは、二〇日午前一一時四五分ころ、太郎に対し、顔面等に皮下出血を伴う損傷を与えた上、同時刻ころ、鎮静睡眠剤であるアモバルビタール(商品名イソミタール)一グラムを注射し、保護室に収容した。

右収容時、太郎は既に呼吸困難な状態にあったのであるから、被告病院の職員らは、それ以降、注意深く五分毎に太郎の血圧をチェックして同人の経過を観察すべき注意義務があったのに、同日午後一時に至るまで何らのチェックもせず経過観察を怠った。

また、被告病院の職員は、太郎が同日午後一時ころには鎮静睡眠剤の効果により血圧も低下し、脈拍も増加し、また、舌根沈下を呈するという異常状態を確認したのであるから、さらに十分な経過観察をすべき義務があったのに、最も経過観察の困難な保護室に放置したまま経過観察を怠った。

そのため、太郎が舌根沈下による窒息状態となり、容体が急変したことについて発見が遅れ、救命可能な時期を逸したため、太郎は同日午後一時四五分ころには既に無呼吸となり、結局、死亡するに至った。

(二) 被告の主張

(1) 有形力の行使について

被告病院では、太郎に対し、殴打、足蹴り等の暴行は一切行っていない。

本件当日、太郎に対し、鎮静睡眠剤(アモバルビタール等)を注射した際、被告病院の看護士らが太郎の身体を押さえつけたことはあるが、それらの行為は正当な業務行為であり違法性はない。

保護室への収容もまた指定医の決定による医療上正当な行為である。

(2) 電気ショック療法の施行について

被告病院では、太郎に対し、電気ショック療法を施行したことはない。

(3) 経過観察義務について

太郎は、二〇日、鎮静睡眠剤の注射を受け、保護室に収容された後も、午後一時四五分ころまでは呼吸困難を生じておらず、血圧の低下、脈拍の増加も正常値の範囲内であり、舌根沈下もなく、異常状態は発生していない。

被告病院では、太郎の状態からして十分な経過観察をしており、観察の結果、体位を変えるなど適切な処置をしており、経過観察すべき注意義務に違反してはいない。

太郎の死因については、原因は不明である。

2 損害論

(一) 原告らの主張

太郎の死亡により、原告らは次の損害を被った。

(1) 慰謝料 合計三一〇〇万円

原告花子 一〇〇〇万円

原告一郎、同二郎、同三郎 各五〇〇万円

原告松夫、原告ハナ 各三〇〇万円

(2) 逸失利益 合計五五一四万九八二二円

太郎は死亡時四二歳であり、男子労働者学歴計の賃金センサス年収額五五九万円から生活費三〇パーセントを控除し、就労可能年数二五年のライプニッツ係数一四・〇九四を乗じた五五一四万九八二二円が損害となる。

このうち、原告花子は、二七五七万四九一一円を、原告一郎、同二郎、同三郎は各九一九万一六三七円をそれぞれ相続した。

(二) 被告の主張

否認する。

第三  判断

一  争いのない事実、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1 事実経過

(一) 太郎は、かねて精神分裂病に罹患しており、被告病院で過去五回にわたり、入院治療を受けたことがあった。

このうち、第四回目は、平成五年一〇月一日に入院し、同月二一日に退院、第五回目は、平成七年二月二四日に入院し、同年三月三一日に退院している。

(二) 平成八年一月一〇日、太郎は、原告花子に付き添われて被告病院を訪れ、診察にあたった檀原医師に対し、「気分が落ち込む。」「眠れない。」などと訴えた。

このとき、原告花子は、太郎を被告病院に再度入院させたいとの希望をもっていた。

檀原医師は、太郎の精神状態から、太郎には休息入院が相当であると診断し、二週間は外泊しないこととの条件をつけた。

(三) 一九日、太郎は、原告花子に付き添われて、被告病院を訪れ、入院した。病室は、被告病院のA病棟二〇八号室(以下単に「病室」という。)であった。

被告病院を訪れたとき、太郎は、「今は調子がいい。」としていたが、入院後、少しいらいらするようになった。

そのため、被告病院では、太郎に対し、鎮静睡眠薬であるアモバルビタール(イソミタール)〇・五グラム(一アンプル(A))を静脈注射し、レボメプロマジン(LP)二五グラム(二A)を筋肉注射して、午後七時ころ、入眠させた。

(四) 二〇日、太郎は、C棟三階の食堂で朝食を摂り、午前九時過ぎには、病室で煙草を吸っていた。

同日午前一〇時ころ、太郎は、A棟看護室にいた田村看護士に対し、「また入院しました。先生よろしくお願いします。」などと挨拶をした。

同日午前一〇時三〇分ころ、太郎は、公衆電話で自宅に電話をかけ、「三〇万円もってこい。」等と怒鳴っていた。

同日午前一一時ころ、他の患者から、太郎が廊下に水を撒いているとの通報があったため、A棟看護室にいた田村看護士と小保方医師が様子を見に行くと、太郎がペットボトルに入った水を廊下に撒いていた。

田村看護士が太郎に注意したところ、太郎は「うるせいな」等と怒鳴って病室に戻った。

小保方医師と田村看護士が病室に行き、太郎に対し、「具合はどうですか。落ち着かないんじゃないですか。」等と声をかけ、「落ち着かないのであれば注射か薬を」等と言って薬の服用ないし注射を勧めたところ、太郎は「副作用があるんだよ。」「てめえやってみろ。」などと怒りだし、同医師に殴りかかろうとした。

(五) 小保方医師は、渡嘉敷医師と太郎に対する対応を協議し、指定医である人見医師に太郎の言動と症状を説明して許可を得て、太郎を保護室に収容することとした。

小保方医師と渡嘉敷医師は、太郎が説得に応じない場合に備えて、A棟看護室に行き、イソミタール二A、LP二Aを用意するように指示した。

田村看護士は、太郎に対してA棟看護室に来るようにと院内放送をし、さらに直接声をかけたが、太郎はA棟看護室に来ようとしなかった。

渡嘉敷医師、小保方医師は、病室で、太郎に注射をすることとし、新井准看護士、田村看護士、竹村准看護士、広川看護士、柿沼看護助手、飯塚准看護婦ともに、八名で病室に行った。

病室では、太郎が煙草をすっており、看護室に来るようにとの促しに対して、「お前がいるからイライラするんだよ。」「消火訓練だよ。火事になったら困るだろ。」「幻聴、聞こえているよ。」「うるせーんだよ手前は。」等と怒鳴り、医師を殴打したりした。

そこで、新井准看護士、田村看護士、竹村準看護士、広川看護士、柿沼看護助手に小保方医師も加わって太郎を押えつけ、渡嘉敷医師が、イソミタール二A(一Aは〇・五グラム。)を一〇CCに溶解した上、太郎の左手背に約一〇分かけて静脈注射し、LP二Aを筋肉注射した。

このとき、新井准看護士は、太郎の腹のあたりを布団で押さえ、田村看護士は、太郎の左の腕と手を押さえ、竹村准看護士は太郎の後ろから胸のあたりを、太郎が倒れた後は、胸と左腕、太郎には左肩の下あたりを押さえていた。広川看護士は、はじめは太郎が煙草を持っていた右手首を両手で握り、その後は腹のあたりから足にかけて押え、柿沼は足首を押さえた。小保方医師も太郎の右上腕部付近を押えつけた。

渡嘉敷医師が、太郎に対し、イソミタール二Aを静脈注射し終わるころ、太郎はほぼ入眠した。

注射中は、太郎には、呼吸抑制、嘔吐はなく、呼吸は正常、顔面蒼白・紅潮もなく、発汗もなく、特に苦しそうな表情もなかった。

(六) 注射が終わり、太郎が入眠すると、田村看護士が指示し、柿沼らによって、太郎は保護室に収容された。

太郎が保護室に収容されたのは、午前一一時五〇分ころであった。

保護室収容時、太郎のバイタルサインは、血圧が、最高一二三、最低七二、脈拍が五五、呼吸数(聴診器で測定。以下同じ。)が二一であり、鼻翼で二段呼吸をしている状態であった。

このとき、保護室を担当していたのは小林看護婦であった。

(七) 午後一時〇〇分ころ、小林看護婦は太郎の観察を行った。太郎の血圧は、最高一一〇、最低五四で、脈拍は八四、呼吸数は三〇であった。

このとき、太郎はやや舌根沈下気味であったので、小林看護婦は、太郎を左側臥位して様子を見ることとした。

小林看護婦は、右内容をすべて人見医師に報告した。

人見医師は、小林看護婦に対し、念のために、太郎の血圧や全身状態をよく観察するようにとの指示を出した。

(八) 午後一時三〇分ころ、小林看護婦が太郎の様子をみると、太郎は口角に泡沫状の唾液を出している状態で、呼吸は規則的だがやや浅くて速い状態にあり、脈は触れていた。

小林看護婦は、同僚の手助けを借りてさらに太郎の左側臥位を深くした。

外観上、太郎には顔面蒼白も、発汗も、痙攣もなく、苦しそうな表情もなかった。

(九) 午後一時四五分ころ、小林看護婦が太郎の様子をみると、太郎は全身チアノーゼ、瞳孔散大で呼吸、心音ともになく、頚動脈も触れない状態になっていた。

小林看護婦から連絡を受けた小保方医師らが、直ちに太郎に対し、蘇生術を施行し、心臓マッサージをし、人工呼吸器を着けて人工呼吸をし、口内吸引を行うなどした。さらに、同日午後二時三〇分ころ、救急車で太田病院へ転送した。

しかしながら、結局、太郎は回復することがなかった。

渡嘉敷医師は、死亡診断書に、太郎の死因は急性心筋梗塞、急性心筋梗塞の原因は不詳、死亡時刻は一四時二〇分と記載した。

2 鑑定の内容

太郎の死亡については、平成八年一月二二日、鑑定処分許可状に基づき、群馬県警察本部長から群馬大学法医学教室の岸紘一郎医師に対し、損傷の部位・程度、成傷用器の種類・用法、死因等について鑑定が依頼され、同医師により、同年七月二日付け鑑定書が作成された。

右鑑定書の記載内容は次のとおりである。

(一) 損傷の部位、程度について

(顔面)

<1> 左耳下腺咬筋部に長さ五センチメートル、幅〇・六ないし一・七センチメートルの表皮剥脱一個

<2> 右頬部に米粒大の表皮剥脱数個

<3> 左頤部に長さ〇・六ないし〇・八センチメートルの腺状表皮剥脱二個

<4> 鼻根部に小指頭大の表皮剥脱一個

(口腔粘膜)

<5> 左上口唇内側に粟粒大の粘膜剥脱一個

<6> 右上口唇内側に粘膜剥脱を伴う大豆大の粘膜下出血数個

<7> 右下口唇内側に米粒大ないし半米粒大の粘膜剥脱数個

(上肢等)

<8> 左上腕内側部に拇指頭大の皮下出血三個

<9> 左内側肘部に小指頭大の皮下出血一個

<10> 左手背に拇指頭大の皮下出血を伴う注射痕一個

<11> 右内側上腕部に拇指頭大の皮下出血一個

<12> 右肘窩に小指頭大の皮下出血一個

(胸郭)

<13> 左第四肋間の前壁ないし側壁に長さ一六センチメートル、幅二ないし四センチメートルの組織間出血一個

<14> 左第六肋間の側壁に鶏卵大一個等の組織間出血

(二) 成傷用器の種類、用法について

顔面及び上肢の皮下出血及び表皮剥脱はいずれも生前に当該部位への鈍体の作用により生じたものと考えられる。

(三) 死因について

本屍の血液は暗赤色流動性で、心臓及び肺の表面に溢血点があり、諸臓器に鬱血を認めた。これらはいずれも急死の際に認められる所見である。

これらの所見のほか、本屍には死因と直接関係があると考えられるような損傷や病変等の異常を認めることはできなかった。

本屍の血中には約六・五μg/mlのアモバルビタール(イソミタール)が証明できた。

本屍の血中アモバルビタール濃度から考えて、本屍が急性のアモバルビタール中毒に陥って死亡したとは考えられない。解剖所見から考えて、生前に本屍がアモバルビタール使用禁忌な健康状態にあったり、アモバルビタールの副作用が生じていたとも考えられない。

したがって、本屍が急死したことは明らかであるが、その原因を明らかにすることは困難であった。

二  争点1(責任原因)について

1 有形力の行使について

原告らは、太郎が死亡したのは、本件当日、被告病院で太郎がイソミタールを打たれた際、鈍体を使用して殴打し、足蹴りを加えるなどの暴行を加え、太郎を押さえつけてその顔面等に皮下出血等を伴う傷害を与えたことによるものであると主張する。

確かに、前記一1(五)のとおり、渡嘉敷医師が太郎にイソミタールの静脈注射をするに際し、被告病院の職員らが太郎を押えつけたことがあったが、それまでの経過からすると、右行為は正当な業務行為であったものと認められる。のみならず、前記認定したとおり、太郎の身体に残っていた損傷には死亡原因となるようなものはなかったから、右行為によって太郎が死亡したものとは認められない。

次に、殴打、足蹴り等の暴行の有無についても、前記認定した事実経過及び傷害の部位・程度からして、太郎の身体には右暴行があったことを窺わせるものはなく、胸郭の出血は太郎の容体が急変した後、心臓マッサージをした際に生じたもの、鼻根部の表皮剥脱は人工呼吸器を使用した際に生じたものと推定される。

原告らは、太郎が死後多量の鼻血を出したと主張するが、原告花子の供述以外にこれを裏付ける証拠はなく、前記鑑定書にも特にこれを裏付ける記載はない。

原告花子及び証人乙山は、被告病院の職員らが太郎のいる病室に入って行った後、太郎が三回「花子」と叫ぶのを聞いたと供述するが、仮にそのような事実があったとしても、太郎に対し、死因につながるような暴行が加えられたことを推定させることにはならない。

結局、この点に関する原告らの主張は採用できない。

2 電気ショック療法について

原告らは、太郎が被告病院の職員らから電気ショック療法を加えられたことにより死亡するに至ったと主張する。

しかしながら、本件全証拠をもってしてもこのような事実を認めるに足りる証拠はない。原告花子及び証人乙山が、前記各供述のとおり、太郎が三回「花子」と叫ぶのを聞いたとしても、そのことが直ちに右電気ショック療法の存在を裏付けるものではない。

したがって、この点に関する原告らの主張も採用できない。

3 経過観察義務違反について

原告らは、太郎の死因は舌根沈下による窒息にあるとして、被告病院の職員らが、太郎に対し鎮静睡眠剤であるイソミタールを通常の一回の使用量〇・五グラムの二倍である一グラム注射し、太郎が注射後の保護室収容時に既に呼吸困難に陥っていたにもかかわらず、太郎を経過観察の困難な保護室に収容した上、午後一時ころまで何らの経過観察を行わず、また午後一時ころには太郎を観察し血圧の低下、脈拍の増加、舌根沈下を呈するという異常事態を確認したのに、そのまま保護室に放置して十分な経過観察を行わなかったことが、太郎の死亡の原因であると主張する。

(一) 先ず、イソミタールを通常の一回の使用量〇・五グラムの二倍である一グラム注射した点については、イソミタールは精神科の治療現場においては、ときに、〇・五グラム使用しても入眠せず抑制がとれて興奮状態を呈することがあることから一グラム使用されることもあること、イソミタールは即効性があるものの持続時間は短く、第一次指数半減期は〇・六時間(三六分)、第二次指数半減期は二一時間とされていること、前記鑑定の結果においても太郎にイソミタールによる中毒、ショックが発症したとは考えがたいとされていること、注射直後及び注射後約一時間経過後の午後一時ころ太郎のバイタルサインがチェックされ、特に異常もみられなかったことから、右イソミタールの注射自体が後の太郎の容体の急変を直ちに予測させるものとはいえず、原告らが主張するような五分おきのバイタルサインのチェックを要するような経過観察義務を発生させる根拠となり得るものではないから、この点について原告らの主張は採用できない。

(二) 次に、太郎が注射後の保護室収容時に既に呼吸困難に陥っていたとの点については、前記認定したとおり、太郎は注射時及び保護室収容時、呼吸も含めて特に異常がなかったことが確認されているから、原告らの主張は前提を欠くことになり採用できない。

(三) また、太郎にイソミタールを注射した後、病室ではなく保護室に収容したことについては、《証拠略》によれば、保護室は、看護室のすぐ近くにあることが認められ、現に、前記認定のとおり、小林看護婦は午後一時、一時三〇分、四五分と太郎の経過観察を行っていたことからすれば、太郎が、保護室に収容されたこと自体が経過観察義務懈怠につながるものとはいえない。

(四) さらに、被告病院の職員が、午後一時ころには太郎を観察し血圧の低下、脈拍の増加、舌根沈下を呈するという異常事態を確認したとの点についても、前記認定したとおり、太郎は当時やや舌根沈下気味であったことが確認されてはいるものの、その他は特に異常もみられず、小林看護婦は太郎の体位を変えることによって太郎が落ち着きを見せたことを確認しているから、やはり原告らの主張はその前提を欠くことになり採用できない。

ところで、太郎の死因については、前記鑑定書の記載においても不明とされており、病理学的検査がなされていないこともあって、本件全証拠によっても断定し得るところではない。

確かに、前記認定したとおり、太郎は午後一時ころにはやや舌根沈下気味であり、午後一時三〇分ころには呼吸がやや浅くて速い状態にあり、午後一時四五分ころには舌根沈下による窒息を疑わせる全身チアノーゼがあって、瞳孔散大で呼吸、心音ともになく、頚動脈も触れない状態となっていたのであり、小保方医師はカルテで舌根沈下による窒息が疑わしいと記載していることからすれば、太郎の死因が舌根沈下による窒息である可能性も否定しきれないところではある。

しかしながら、太郎の死因が舌根沈下による窒息であると断定するに足りる証拠はなく、かえって、前記のとおり、太郎の容態は午後一時三〇分ころから午後一時四五分までの間に急変したものであること、そのとき太郎は既に呼吸心音ともになく、その直後人見医師が診断したときには呼吸も心臓も両方とも弱くなっていたこと、蘇生術も効果をみせなかったこと、《証拠略》によれば、太郎はかねてから血中コレステロール、トリグリセリド(TG、中性脂肪)の量が多く、昭和四九年六月時点(第一回入院時)の総コレステロール(T―CHO)は二〇三mg/dl(以下単位省略)、昭和六一年八月時点(第二回入院時)の総コレステロールは二一八で、トリグリセリドは二一四、昭和六一年九月時点(第三回入院時)の総コレステロールは三〇二、トリグリセリドは一八三、平成二年四月時点の総コレステロールは三五一、トリグリセリドは六九四、平成二年一二月時点の総コレステロールは三八七、トリグリセリドは二四九、平成三年四月時点の総コレステロールは三三二、トリグリセリドは四三一、平成三年八月時点の総コレステロールは二六一、トリグリセリドは二一五で、平成四年九月時点の総コレステロールは一八七、トリグリセリドは一一六で落ち着いていたものの、平成七年三月時点(第五回入院時)の総コレステロールは三〇八、トリグリセリドは五三〇、平成八年一月時点(今回入院時)の総コレステロールは二七六、トリグリセリドは三九〇であり、町の健康診断においても高脂血症であると指摘されていたこと、太郎の平成八年一月一九日(今回入院時)の体重は九六キログラム、身長は約一七五センチメートルで肥満症であったことが認められ、これらの事情を総合考慮すると、太郎は、午後一時三〇分から四五分までの間に急性心筋梗塞を発症して心原性ショックに陥り、死亡するに至った可能性が高いということができる。

そこで、太郎の死因との関係で被告病院の経過観察義務違反の有無を検討すると、太郎が急性心筋梗塞により死亡したとすると、前記認定したところによれば、午後一時以降、太郎に急性心筋梗塞発症を予測しうる特段の事情はみられないから、経過観察義務違反があったとはいえない。

また、太郎の死因が舌根沈下による窒息であったとしても、午後一時ころ太郎がやや舌根沈下気味ではあったものの、体位を変えたことによって太郎は落ち着きをみせたこと、午後一時三〇分ころにはやや呼吸が速くなっていたものの呼吸はできていたこと、注射時から既に九〇分程度経過していたことからすれば、やはり舌根沈下による窒息を予測し得たとはいえず、経過観察義務違反があったとはいえない。

4 まとめ

以上のとおりであるから、太郎の突然の死亡について、その責任原因が被告にあるとはいえない。

第四  結論

よって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村田達生 裁判官 中野智明 裁判官 鈴木陽一郎)

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